「人はみんな違う」って意味、本当にわかってますか?

これは僕のバイト先である飲食店でつい先日に実際にあった出来事。

(僕のバイト先には新人社員がいるのだが、その人は仕事がすごく遅い。レジを打つのに他の人より倍は時間がかかるし、咄嗟の判断とかもあんまりできない。この社員の人を便宜的にGさんとしよう)

この日はGさんがレジ、僕ともう一人女の子がホールだった。
お昼時ということもあって店はなかなか混雑していて、Gさんは案の定、レジで人を捌くのに時間がかかっていた。
Gさん
お会計が...えっと...
バイトの女の子
あ〜もう!見てくださいよあれ!Gさんがグズグズしてるからあんなにお客さん詰まっちゃってる!もう!見ててイライラしませんか!?
ひらやま
そうだね〜。でも仕方ないでしょ。そんなイライラしなくても笑
バイトの女の子
いや、いるだけで邪魔!って思っちゃう。なんでできないの!って笑
ひらやま
気持ちはわかるけど、その考えはどうなんだろう。。?

この出来事から僕が少し考えたこと、そして伝えたいことを今日は書いていきたい。

他人にイライラするのはどんな時だろう。

どうしてバイトの女の子はGさんにイライラしてしまったのだろうか?

このことを考えるためにはまず、

人が他人にイライラする時ってどういう時だろうか。

という問いを考えなくてはならない。

この問いの答えとして、

自分に不利益をもたらす時(例えば理不尽に殴られたり)はもちろんだけど、「自分の期待に応えてくれない」とき、人はイライラするんじゃないかと僕は思う。

じゃあ「期待」っていうのは何なのか、って考えると「当然できると考えられること」になるんじゃないかと思う。

これを説明するにあたって、野球を想像してほしい(野球がわからない人は他のスポーツで置き換えてみてほしい)。

僕が野球をしていて、ホームランを打てなかったとしよう。でも僕がホームランを打てなくても、ほとんどの人は僕に負の感情を持つことはないだろう。

これは「ホームランを打つこと」は僕には難しいことだってみんなわかっているからだ。

では、簡単な打球を僕がエラーしたとしたらどうだろうか?

きっと多くの人が落胆するだろう。

これは「簡単な打球を捌くこと」は「当然できること」として認識されているからだ。

「できて当然」と思うことを他人ができないとき、人は他人にイライラするんだと思う。

「できて当然」

じゃあ人はどうやって「できて当然」を定義しているのだろうか。

この定義の方法は大きく分けて2パターンあると思う。

1つが、他人中心の「できて当然」

もう一つが、自分中心の「できて当然」だ。

他人中心の「できて当然」

他人中心の「できて当然」は理解しやすい。

これは、他人の能力や経験をもとに「この人はどのくらいのことができるのか」と予測してできるものだ。

例えば、あなたが街で行列ができているラーメン屋に入ったとしよう。

恐らく、あなたは美味しいラーメンが出てくることを期待するだろう。

これは「これだけ行列ができるラーメン屋なんだから美味しいラーメンを作ってくれる」というあなたの予測に基づいている。

このお店は美味しいラーメンを作れる、という相手への期待「できて当然」を作り出している。

自分中心の「できて当然」

比較して、自分中心の「できて当然」はしばしば厄介だ。

これは、自分ができることは他人ができて当然という意識によって生み出される。

先のバイト先の話こそ、まさに自分中心の「できて当然」の例だ。

レジを速く打つことができるバイトの女の子は、”当然”Gさんもレジを速く打つことができると思っている。

だから、レジを速く打てないGさんにイライラしてしまう。

これが、自分ができることは相手もできる、という自分中心の「できて当然」だ。

そして、この自分中心のできて当然は非常に恐ろしいものである。

なぜなら、この思想の中には「人間には個体差がある」という大前提が欠けているからである。

「人はみんな違う」って意味、本当にわかっていますか?

「人間には個体差がある」って、誰もが分かっていることだと思う。

きっと読者のみんなも、小学校に入ってくらいから、勉強や運動、芸術なんかのあらゆる部門で、自分にはできないことを他人が難なくやっている様子から”才能”ってものを感じていったはず。

速く走れる人、絵が上手い人、勉強ができる人…

だから誰もが、人それぞれ得意なことがあれば、不得意なものがあるってことはわかっているはず。

でも、本当に「人はそれぞれ違う」ってことを理解して行動できているだろうか?

自分ができるから、みんなができるから、多くの人ができるから、

「これはできて当然」「これは常識」

そう思ってはいないだろうか?

自分ができることは他人ができることだろうか?

みんなできる、っていうのは本当に全ての人ができることだろうか?

自分にとっては簡単なことでも、他人にとっては、どうしてもできない不得意なことってあるんじゃないだろうか。

僕に言わせてもらえば、

レジを速く打てるか打てないか、と、速く走れるか走れないか、

って大差のないことだと思う。

どっちも生まれ持った才能が原因じゃないだろうか。(もちろん両方とも練習すれば速くなるけど、速くなるまでかかる時間なども、また才能によると思われる)

人それぞれ違うってことを十分に理解していれば、自分中心の「できて当然」が生まれることはないだろう。

そうであれば、人にイライラすることも減るのではないだろうか?

みんな違うとわかれば、自分が楽になる

ここまで読んで、なんだ説教たれやがって!

ひらやまは自分が人格者だとでも言いたいのか!と思われた方もいるでしょう。

しかし残念ながら、僕は人格者ではないので、全くの思いやりからこのような考えを持っているわけではない。

「みんな違う」と考えることは自分をラクにするからだ。

他人にイライラしなくなれば、それだけ自分のストレスがなくなるし、

そして何より

自分ができないことがあっても、それは「自分は周りと違うから仕方ない」

と思えるようになる。

これは、思ったよりもストレスをなくします。

やっぱり僕も人間ですから、周りよりできないことがあると焦ったり、不安になったり、凹んだりすることが多々あります。でも、そんな時に「自分は自分だから仕方ない」と思えることで、多少ですが気持ちがラクになります。

何かできないことがあっても

ひらやま
頑張ったけどできなかったなら、仕方ない

「仕方ない」と思えば、あまり悩まなくなる。

悩まなくなると、ストレスがなくなる。そうすると生きるのがラクになる。

いかがでしょう、

皆さんも「人はそれぞれ違う」ということを意識し直してみませんか?

 

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